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ーprofileー
戸田 千春
Chiharu Toda
~音楽ライフ①~
0才から母のピアノ、そして母のピアノ教室、常時約90人もの生徒に囲まれ、
ピアノの音色がしない時は無い!
という環境で育ちました。
母にはこれ、と言ってピアノを無理強いされた記憶はありません。
あべこべに
でたらめに弾いたピアノをほめてくれます。
母の教室の生徒さんのレッスンが終わる18:30からが
私の練習タイム。
それこそ
これ、と言って譜読みを教わったこともありません。
でも母の目に叶う弾き方をしておりました。
なぜなら
私の母親はピアノ教室を開く前は小学校の音楽の教師でした。
その当時、時代も昭和。
スパルタはまかり通る時代。
手をたたくといった体罰は一切しない母親でしたが、
言葉でどの生徒も
妥協を許さない的確、かつ厳格なレッスンをするという大変高い定評がありました。
そんな母が育てた水準の高い90人もの生徒のピアノ演奏に囲まれて育った幼少期。
それを全て耳コピしたおかげで読譜も苦労したこともなく、ピアノは私にとって「楽しいもの」でしかありませんでした。
中学生になったとき
母から尋ねられました。
「音大に行く?」
私は二つ返事で
「うん、行く」
ピアノは母の師匠であった滋賀大学と大阪音楽大学の兼任講師であった
安田信子先生、そしてスパルタ指導で有名な若槻文子先生に習うため片道1時間かけてレッスンに行き、
楽典や声楽は母の音大卒の弟子に就き、と
たくさんの音楽の習い事をさせてもらいました。
もちろん土日の休みはありません。学校以外ほとんどの時間がピアノや音楽の練習で消えていくのですが、どれ一つ「嫌!」とも感じず、
あべこべに
受験曲に向けた難曲を宿題にもらってくる度に
母がそれはそれは興味や関心を持って
ある時はほめて、
ある時は批評し
ある時は叱咤激励し、
と影日向となって自分を支えてくれるのが
嬉しくて嬉しくて
ますますピアノにのめり込む自分がおりました。
~音楽ライフ②~
独身時代は県立高校の音楽科の講師とヤマハ音楽教室のピアノ科を兼任。
6年間勤めあげたのち
縁があり実家から100キロ離れた神戸市西区に嫁ぎました。
母から学んだ「音楽と真摯に向き合う姿勢」、
「ヤマハ音楽教室で学んだ指導法」
大学で叩き込まれた「楽譜に忠実である技法」。
それらを基盤に新たに光の音と御木本メソッドによる脱力法を加えることにより
コンクールでは上位入賞
中学の合唱コンクールの伴奏者
音大、保育科への進学希望者も相次ぎ、
近隣は元より遠方からも
みどりピアノ教室を選んでくださっております。
私自身が一度も音楽を、そして
ピアノを嫌いにならなかった。
音楽以外の道に逸れたことの無いスタイルにより編み出された
ぶれのない一貫性のある指導法に皆さん
大変満足頂いております。
1000人以上をお教えさせて頂きました実績のあるレッスン。
どうぞこの目でご体験下さい。
~経歴~
大阪音楽大学器楽学科ピアノ専攻卒
指導歴37年
全日本指導者協会(ピティナ)指導会員
元ヤマハピアノ教室ピアノ講師
元高校音楽科講師
中学校教諭一種免許状(音楽)取得
高等学校教諭二種免許状(音楽)取得
ヤマハ、カワイ ピアノ演奏・指導グレード取得
大阪音楽大学ピアノ指導者研修終了
ほめ達(ほめる達人)検定1級取得
ブルグミュラーコンクール審査員
日本ピアノレスナーアカデミー認定講師
兵庫県学生ピアノコンクール、
ピティナ・ピアノステップ指導、
ヤマハ、カワイピアノグレード指導も行っております。
私が生まれた時から午後から晩までずっと母が教える生徒さんのピアノの音を子守唄代わりに聞かされておりました。
そして、その当時は、
なんと!最大で生徒さんの数は90人!
今では考えられないような数の生徒さんが母の元に通っておりましたので
赤ちゃんの時から、午前は母のピアノを。
お昼から晩まで生徒さんのピアノの音色を空気のように聴いておりました。
日曜日は母の生徒さんが弾くベートーヴェンの「悲愴」が目覚まし時計代わりです。
おかげさまで、絶対音感は完璧に身につきました。
好きな曲はクラシック音楽です。
好きな曲を耳コピして楽譜に書き留めるのが趣味でした。
そして、私の小学生の時の将来の夢は、母の歩んだ道と同じく
「ピアノの先生になること」でした。
この夢は中学生になっても高校生になっても全くぶれることなく
学校のある日は1日4時間
休日は8時間〜10時間ピアノを練習し音楽大学に入学。
夢を現実のものにしました。
大学一厳しい、と評判の若槻文子先生に師事。
あまりにものレッスンの厳しさに自殺未遂を図った人がいる、という噂の先生でしたが音楽に対する姿勢、楽譜に対する意識を徹底して教えていただき、これらの教えは未だに私の脳裏から消えることはありません。
今教えている生徒さんから尋ねられます。
「先生の名前「みどり」じゃないのに、なんで教室の名前は『みどりピアノ教室』なの?」
歴史古い街でしたが、緑が少ない場所に私の母はピアノ教室を開いておりました。
母は「みどりが欲しいなぁ」
こう思ったそうです。
そこで、ピアノ教室に
「みどり」
と言う名前を付けたそうです。
縁あって今は実家から100キロ以上も離れた神戸市に嫁ぎました。
我が家の隣は大きい楠やメタセコイアや 楓、そしてサルスベリが四季折々の美しさを見せてくれるみどり多い公園があります。
母の付けた教室の名前をそのまま引き継ぎ「みどりピアノ教室」
この神戸市西区のみどり多い土地でピアノ教室を開いて今年で28年になりました。